「ジェシカ、今でも家でピアノを弾いてる?」
放課後の音楽教室で、音楽教師のミーナ先生に聞かれた。
「え、はい、時々は…」
「あなたのピアノ、とても素敵よ。腕が落ちないよう、練習していてね」
「ありがとうございます」
そう言えば、以前ミーナ先生から“ジェシカはピアニストになりたいの?”と
聞かれたことがあったっけ。
ミーナ先生は大学で、芸術学を学んだ人で、とてもピアノが上手なのだ。
私は、授業が終わった後で、こうして先生が気まぐれに聞かせてくれる演奏
が大好きだった。
…
先生は帰りがけに、“将来の進路について聞きたいことがあったら、遠慮
せずに相談してね”と言ってくれた。
進路…
少し、驚いた。今日ミーナ先生に言われるまで、自分の将来のことなんて、
何も考えていなかった。
一年後も、十年後も、今と同じような日々が、ただ漫然と続いていくような気
がしていた。そんなはず、ないのに。
…
でも、私…何がしたいんだろう?
ピアノを習い始めたのは、5歳の時。それは、今でも大切な趣味として続い
ている。寂しい時も、嫌なことがあった時も、ピアノを弾いていれば忘れられ
た。お父さんたちも、私のピアノを喜んでくれたし…。
でも、分っている。趣味で弾くことと、プロになって沢山の人の前で弾くことは、
全然ちがうものだ。
わたしは、こうして好きなように弾いていれば、それで幸せ…。
カチャ…
ドアの開く音に、演奏に夢中だった私は、まるで気がつかなかった。
だから、背後でいきなり男の子の声がした時、口から心臓が飛び出そうな
くらい驚いた。
「すげーな、ピアノ!」
「きゃっ!?」
「あ、悪りぃ。驚いた?曲が終わるまで、黙って待ってたんだけど」
同級生の、アイザックだった。私は突然の状況に対応しきれず、パニックに
陥りながらイスから飛び降りた。
今までの演奏…このひとに、聞かれていたってこと?
いやだ、恥かしい…!
「すごいな、ジェシカ。ピアノめちゃくちゃ上手いじゃん!」
「…」
言葉が出てこない。どうしよう、こういう時は何て言えばいいの?
「俺、音楽は全然駄目なんだ。っていうか、そもそも楽器自体あんま触ったこと
ないしさ。だから、クラシックとかよく分らないんだけど」
アイザックは目をきらきらさせながら
「今のピアノは、すげー良かった。なんか、感動した!」
そう、言った…。
「あ、ありがとう…」
私のピアノを、こんな風に家族や先生以外の人から褒められたのは、これが
初めてだった。
「プロのピアニストになんないの?すっげ、儲かりそう」
「…」
「お金…欲しいから、弾いてるんじゃ、ないもの」
ああ、良かった。ちゃんと、声が出た。
私の言葉に、アイザックはびっくりしたようだった。
「えーでも、もったいねー!俺があんな風に弾けたら、絶対プロのピアニスト
になって、コンクールで賞金とかガスガス獲って、CD出しまくって、世界に
巡業公演しまくって、めちゃくちゃ稼ぐのに」
…ふふっ
思わず、笑ってしまった。
「え、なに?何かおかしかった?」
「だって…すごく、簡単そうに言うから…」
プロには、プロの人にしか分らない苦労が、沢山あるはず。
それに、本当に音楽が好きなら、お金のためだけにピアノを弾くわけない。
でも不思議と、お金儲けについて語るアイザックは、見ていて嫌な気持ち
にならなかった。
アイザックって不思議な子だ。いつも、お金の話をしてる。
いつだったか、水槽を見ていたら、意味もなく話しかけられたことがある。
「こないだ、ペットショップに行ったらさー」
「…」
「魚って意外と高いのな!こんなちっちゃな魚が俺のバイトの時給より高い
んだぜ、びびったよマジで」
「あと魚の値段って、大きさじゃないんだよなー変なの」
なんて話しかけられて。
変な子…とその時は、思ったけど。
面白い。アイザックを見ていると、自分とはまるで違う生き物みたい。
彼がタフな海水魚なら、私は淡水魚。
…小さな水槽に満足している、ちっちゃな熱帯魚だと、そう思った。
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